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2017年2月 8日 (水)

今でしょやり過ぎでしょと歴史推理の眞鍋さん

 

さて「林修の今でしょ!3時間SP」

眞鍋かをりさんが登場したのは歴史推理の段。

となると当方も黙ってられなくなってしまうが御容赦を。

 

まずは諸説紛々の本能寺。

なかには千利休黒幕説なんてのもあるぞって話に

 

001

 

奴が裏切ってたとしたらゲスいぞと眞鍋さんのひと笑い。

 

だが林先生が疑うのは徳川家康。

信長の命令で妻と長男を殺さざるを得なかったこと

眞鍋さんは知らなかったみたいだけど

 

002

 

「奥さんより主人を取ったってことですよね」

という指摘は実は重要。

家康は信長の家臣ではなく、対等の同盟者

だったはずなのだが、

この事件を機に主従関係へと移ってゆく。

 

秀吉の中国大返しが出来過ぎ、と秀吉も疑った林先生。 

賤ケ岳合戦の時も秀吉は大返しやってるよ

って指摘があったが、

あの時はあらかじめ策を練って用意していたと考えられる。

実は本能寺も想定内だったとしたら別だが・・・ちなみに

当方は想定していたと推理している。

 

光秀軍の出陣は秀吉の援軍としてのもの。

信長が安土を出たのも秀吉から出陣を求められたから。

といってもこの時期の信長は社内を視察する社長のようなもので

ボディーガードはいても自ら大軍を率いることはない。

甲州攻めでもそうだったから

光秀も秀吉もそれを知っていたはずだ。

 

秀吉に引っ張り出された光秀と信長。

当の秀吉はというと、

とっとと毛利との休戦交渉を進めていたとする説がある。

一方で援軍を要請しながら他方で和睦とは奇怪だが、

だとすると大返しの準備をする時間はあった。

 

以上、テキトーに都合の良い説をつなぎ合わせると

本能寺の変は光秀と秀吉の共謀。

だが秀吉は最初から光秀を始末するつもりでいた

ってことになる。

まぁ豊臣の天下統一という結果は同じなのだから

妄想でも何でも推理は自由じゃないか。

 

003

 

光秀軍の兵たちは信長を討つとは思っていなかった

という話に「本能寺についてから分かった?」

いやぁ下っ端の連中は分からなかったろう

って話になるほど眞鍋さん。

「敵」とは言ったけど信長とは言ってないし。

 

 

 

桶狭間については番組見解に当方もほぼ同じ。

当時の動員兵力は1万石あたり230~250人。

38万石の上杉軍8千が無敵を誇ったのだから

今川70万石に対し

尾張57万石も侮れるものではない。

 

おけはざま山と呼ばれる山があったことが

古地図により判明しているので、

今川義元は見晴らしの利く山の上に陣取っていたのだろう。

しかし当日は豪雨があり視界が悪かった。

信長本隊の接近に気付かなかった可能性がある。

しかも、織田方の砦を攻める為、今川軍は分散していた。

若き日の家康も今川方に加わっていたが桶狭間にはいなかった。

 

進軍してきた信長が粛粛と魚鱗だか鶴翼だかの陣形を敷き、

準備でけたし、ほなやりまひょかと合戦を挑むのではなく、

油断しとるがなチャンスだっせ、攻めるなら今でしょと

行軍隊形そのままに先頭から突っ込んでいったなら

今川軍は陣形を整える間もなく、結果的に奇襲となっただろう。

後続は先頭についていけなかったので

今川本陣まで到達したのが3千だったという解釈も成り立つ。

 

謙信が川中島で使ったとされる

車がかりの陣にも似たような説がある。

行軍隊形だった上杉軍だが濃霧の為、武田軍は気付かなかった。

先に気付いた謙信は直ちに先頭に攻撃を命じて先手を取り、

後続が順次波状攻撃を仕掛けた、とする説である。

 

桶狭間といえば、かつては迂回奇襲が定説だったが、

信長公記にもそんなことは書いておらず、

奇襲効果を強調する為に後世の人が話を盛ったのであろう。

奇襲効果はあったが正面攻撃だったと推理する。

 

004

 

通説にいう3千対4万5千は

大袈裟に数字を書き換えたのではないか

って話に「やり過ぎでしょう」の眞鍋さん。

でも信長は各地に戦果を誇張した書状を送って

世論工作をしているので、ない話じゃないかもよ。

 

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